村上春樹「便宜的なぼく」について

村上春樹の文章から導かれることと、自分の生活のつながりを書いてます

北朝鮮、短信

日本海側に住んでいると、北朝鮮からの木造船やら遺体が港に流れ着く…
というせいか
周囲には、過激な方々も多くて、私もいささか田舎暮らしに疲れてきました…笑

 

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私は動機としては、日本の現代史を知るために
ドイツ思想(哲学)史を、わざわざ一時、やってみたのですが
その過程で、だいたい、以下のような認識を持つようになりました。


ヨーロッパは、世界中のどの地域より、宗教戦争、経済戦争が多く行われた場所で
しかも植民地政策やら、世界各国に、その野蛮な暴力を振りまいてきた…

イギリス、フランス、オランダ、ベルギー、ドイツ、オーストリア、スペイン、ポルトガル、イタリア、ロシア…

そのヨーロッパが「戦後」をスタートさせるためには
ヨーロッパの災禍を、まとめて全部、ドイツに押し付けることが必要だった。


そうだよなー、いっつも、ドイツが悪いんだよなー
あの田舎者が、調子に乗ると、いつも、ロクなことが起きないから。
戦争って、アイツらのせいで、始まるんだよねー
ドイツさえ静かなら、ヨーロッパって平和じゃね??


この発想は、第一次大戦~第二次大戦どころか
17世紀以降、ヨーロッパが抱えていた「厄」を、全部、ドイツに帰着させることで
EC、EUの新しい戦後秩序ができあがる。
ドイツを悪者にすることで、フランスやイギリスが手を結べる。

そのECでもEUでも
根本的なイニシアティブを、ドイツに握らせない、の命題は
いまでも変わらない。



普通に考えれば、たとえば、フランスで「サラの鍵」みたいな映画がつくられるように
https://www.youtube.com/watch?v=tTHnnvvMhBo
(フランス人だって、ユダヤ人を虐殺してたじゃないか、と)

ヨーロッパ世界は、言うほど単純に、ドイツだけが悪いわけじゃないので
ドイツとしては、いろいろ、反論したくなる…。
(そもそも、欧州での戦禍は、英仏が、ドイツとオーストリアの台頭を頑なに阻止しようとすることで起きたとも言えるし)


しかし、非常に面白いのは
ドイツは、ある時期まで
「そうです、私たちが、全部、間違ってました」
「…ということは、私たちが悔い改めれば、戦後ヨーロッパは出発できるわけですね?」

基本的には、ヒトラーだけでなく、ドイツ国民が根本的に誤っていたのであり
ドイツ国民の内部には「いつでも過剰に誤りうるDNA」が潜伏してるのだから
そのことに自覚的にならなければいけない

という、やや乱暴なストーリーを
自ら戦略的に受け入れた面があるように思われ
それがいまでも、「実質的にヨーロッパで一番、影響力がある国」たる由縁だと思われます。
(時代が経つに連れて、ドイツの若者も「いつまで俺たちは謝り続けるんだ!ナチスにもいい部分はあった!」とか言い始めてるけど)



対する日本は、どうだったか考えると
「日本が全て間違ってました」
「日本さえ、まともなら、東アジアの混乱はありませんでした」
というストーリーを、根本的に受け入れることができなかった。

そりゃ、確かに
日本は最終的にアメリカに原爆を落とされましたし
降伏したあとにも、ロシアに国際法違反の奇襲を食わされたり
中国での大虐殺の「数」が多すぎるんじゃないかとか
朝鮮半島での慰安婦も「数」が多すぎるんじゃないかとか

そもそも、日本は中国大陸に「進出」したのであり
あれは侵略ではなく
西欧列強から、アジアを守るためにーー(以下略
韓国や台湾だって、日本の植民地になっていたからこそ
インフラが整ったのであり
植民地にされたことは。むしろ幸運でありーー(以下略


などなど、さまざまな歴史修正主義としか言いようがない
「言い訳」が飛び交い
ドイツのような、根本的に、日本が悪うございました
のストーリーを採用できなかった
(あるいは米国により、採用を封じられていた)
ことが大きな違いだと私は考えています。


で、日本は、「私たちが全面的に間違ってました」と言う代わりに
迷惑をかけた国々に
金を払って、国交を復活させていく。。。

ソ連、中国、韓国、東南アジア…

みなさん、すいませんでした
あのときは、多少、迷惑をかけたっぽいので
「金」で解決します。
日本は、うまいこと、経済大国になりましたので。

君たちも、金、欲しいでしょ??


というわけで、中国や韓国などは「心底では納得してない」ながらも
金は欲しいので
形式上、日本と国交を回復させていく。
(けど、根本では納得していないので、侵略・植民地問題を、未だチャラには出来ず、たまに爆発する)


あれ???
北朝鮮は……??

となりますが
北朝鮮は、唯一「金で解決すること」を、拒否した国家だったというのが
私の認識です。

北朝鮮は、まだ、日本と戦争状態が続いてる。。。
だから
70年代~90年代にいたっても「工作員」を日本に派遣したり
国家的事業としての拉致を繰り広げる。。。
(韓国に対しても同様の行為を行っていますね)

とっくに戦後秩序をスタートさせたはずの日本(韓国)からすると
北朝鮮って「何であんなことするの?」と言いたいのですが
彼らの理屈からすると、別に1度も、日本(韓国)を許してないから。
なんだと思います…


ただ、2002年の日朝平壌宣言では
「国交回復後は、両国が適切と思われる期間にわたり、戦後賠償を行う」
ことが明記されてますので
当時、北朝鮮も、国情が苦しいので
拉致問題を解決して(死んだ人は死んだといい、生存者を日本に帰す)
戦後賠償とやらを受け取ろうと考えたはずですが

日本政府が「拉致被害者の全員の帰国がなされるまで、国交正常化交渉はできない!」
とキレたあたりから
今回の事態へと、問題は流れていってると、私は考えます。。。


なので、まとめると
北朝鮮って「何であんなことするの?」に対する答えは
日本を許してないから
韓国を許してないから
その怨念の情を汲み取らず、威圧してくる米国が許せないから、であり

なんで日本を許してないの?
に対する答えを
日本人の多くが忘れているというのが、実際だと思います

韓国はどうか、というと
少なくとも、なぜ、北朝鮮が「ああなったのか」の事情をよく知ってますし
日本憎しでは一致しますし、そこでは中国とも手を結べますし
日本人が「忘れてる」ことも、ちゃんとムカついてますので

恐らくは「北朝鮮がヤバい」以上に
北朝鮮がなんでヤバくなったかを、忘れている日本人に
韓国人は、メチャクチャ、キレてるのではないかと思われ
今回の北朝鮮問題の「落としどころ」次第では
韓国、中国が、いよいよ、日本にマジ切れ、の事態を想定しなければならず
そのときに、相変わらず、なぜ彼らがキレてるか、日本人が「分からない」という
最悪のシナリオを考えてしまいます。


短信と言いつつ、長くなってしまいましたが
こういう行き詰まり状態の、日中韓北の関係に、トランプ的な大雑把さで
突き進もうとする米国と、己の思惑を絡ませるロシア。

この田舎者6カ国だけで問題を解決しようとすると
本当に「軍事衝突」が怖いので
どうすれば、この問題に、国連や、英独仏などヨーロッパ世界を「我がこととして」巻き込むかが
個人的には気になっています…

おわり。。。

ようやくハルキを書き始める

「君は孤独にはなれている」と大島さんは言う。
僕はうなずく。
「しかし孤独にもいろんな種類の孤独がある。そこにあるのは、君が予想もしていないような種類のものかもしれない」

「どんな風に?」

大島さんはメガネのブリッジを指先で押す。
「なんとも言えないな。それは君次第でかわってくることだから」

村上春樹海辺のカフカ上』p194-195)

 

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うまく調べられないのだが
村上春樹の小説やエッセイは、世界50カ国以上の言葉で翻訳されているらしい。
私が知る限り、日本人でこれほど広く世界で読まれている作家はいないが
面白いことが2つある。


1つは、世界中で読まれているにも関わらず
日本の文壇のなかで「村上春樹」は、まともな評価を受けていないこと。
村上春樹は、芥川賞ももらっていないし
文芸評論家や、研究者、あるいは、一般読書家の間でも、それほど評判がいいとは言えない。

簡単にいえば、村上春樹を読んでいる、ということを
なにか人に言いづらい、微妙に気恥ずかしい感情を私は否定できないのであり
まして、評論や研究を行う人々が
その素材に「村上春樹」をチョイスすることが、どうも許されない空気があるようなのだ。

たとえば、夏目漱石森鴎外を扱うことに学術研究は一生懸命なのだが
なぜかハルキは、ダメっぽい。
熱心な大学生が、大学院に進んで、本格的な文学研究をやろうとして
村上春樹をその素材に選ぶとして
恐らく、その指導教員を探すのに、けっこう苦労するだろう。

たぶん、若い院生が「なぜハルキを扱うのか」を
一通り説明するためには
夏目漱石の話だとか、三島由紀夫の話だとか、近代文学史とか文体論だとか
社会学とか哲学とか、現代社会論とか、個と集団とか、精神分析の言葉だとか
そういうことを
色々混ぜ合わせて「学術的に」仕立てないと
なぜ、ハルキを学術的に扱うのかが、うまく了承されないような気がする。たぶんだけど。

漱石とか三島と言えば、学術的に何かが共有されて進行していく気がするのだけど
ハルキと言っても、それ単体が「なに」であるか、うまく説明できない。

 

2つは、恥を承知で言えば
私は村上春樹を読めるようになるまで、というか、一応の理解を得るまで
20代後半、30歳の入口まで待たなくてはならなかった。

それは、自分の人生のなかで、ハルキを理解するに足るような経験値の問題かもしれないし
哲学やら歴史学やら社会学やら文学やら批評が、一通り「何を問題にしてきたのか」を
一応、並べて理解できるようになることで
ようやくハルキが何を言わんとしてるか、少し分かった、という感じだ。

だとすれば、村上春樹は、日本人の眼からしても難しいのであり
仮にあの文章の一部が
韓国や中国やロシアや、どれどころか、ブラジルやスペインの人々に読まれているとして
しかもひょっとしたら
私と同世代ぐらいの若者(広義で20-30代としよう)の心に
何かを響かせているのだとすれば

それは「何」なのか?
という疑問を呼び起こしてしまうのだ。
(言い添えると、別に英米仏独などの若者が、ハルキを好んだとしても、さほど不思議に思わない)


もちろん、私がハルキを理解するまで
ひどく長い時間が必要だったとか
「学問」を理解しないと、ハルキが理解できなかった
というのは、全く個人的な問題であるし

そもそも、私の理解は、私の理解であって
私の楽しみ方と、同じ楽しみ方を、ブラジルの人がしているとは思わないが
(また、その「一致」が良いことだとは思わないが)
彼らにハルキがどう響いているのかは気になるし

大げさに言えば、世界平和というか、他者との侵さない共存の芽とは
そういう部分でしかないような気がしている。

ハルキを読む、中国や朝鮮の若者。
Kポップを聴く、日本人。

ライフコースの社会学

社会学の研究では、鳥取県の若者たちを対象に取材した
『学歴社会のローカルトラック』や
弘前大学出版から出ている
青森県を生きる若者たち』、『東京へ出る若者たち』がある。


社会学の概念で、ライフコースなるものがあるらしい。


人がどういう人生を生きようと望み、実際にどう生きたか
思うようにならないとき、いかに目標や言動の修正を図ったり
上手くいかないことそのものに、どんな理由を与え、納得しようとするのか…

そして、そのライフコースの「思い描き」と
社会情勢や、生まれ(地方出身か都市出身か)が、どう影響しているのかなどを
論じる。

 

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私は、大学時代、社会調査論研究室というとこにいて
そこではまさに、人のライフコースの問題を
「住居、住むという行為」から調査する作業をしていました。


県内のニュータウンに住む人々や、都市型のマンションに住む人々
あるいは東京下町の人々などの「ライフ」を、ある「コースの思い描き」と
重ねながら調査していた。

その後、大学を卒業して
私がいったん東京に住んでいたとき、そのときお世話になった先生方のNPOにも
入ることになり
より具体的に、その調査を進めるようになりました。

 

そこで気になるのが

ライフ(その人の命)と、コース(どう生きようとしているか)が

日本人は、かなり密接に結びついているのだなあ、ということ。

 

東京では(地方でもそうだが)タワーマンションの開発が
着々と進んでおり
そのタワーマンションは単体の開発ではなく、周辺の老朽住宅の解体という「周辺再開発」という
面として行われる。

そうすると、ある再開発(高層化、立体化)は、もともとそこに住んでいた人々の
「追い出し(移住」を前提にするわけですが
移住させられる側には
まさに、彼ら自身の「ライフ」が存在していたわけであり
それは彼ら自身の「コース」と関係していることなわけです…。

 

すいません、ちと分かりにくいですね。
「どこに、どうやって、住む」、という行為が

まさにライフとコースの接合の場に思えてくるのです。

 

 

例えば、東京郊外や、東京東部の江戸川や葛飾には
もともと地方出身の世代が
東京に出てきて、少ない給料でローンを組みながら
東京の端っこに小さな家を建てる、的な
ライフ・コースが存在していたわけだし

もっと下町にいけば
全く儲かってないけど、代々続く和菓子屋で、ココの土地と建物だけは
守っていかなくてはならない
という類のライフ・コースが存在する。


そうした、いわば個人的なライフやコースは
再開発行政、再開発ディベロッパーの前では、いかにも歯が立たないので
そこで「住民運動」というマスな闘争体が生まれる。

我々のNPOは、そうした一連の住むこと、ライフコース、住民運動
法的、理論的ツールであり
行政の都市計画ではなく、市民に根ざした「まちづくり」を支援せねばならない
という少々、左翼的に力が入った活動をしていた。

そして、私自身は、その会合でほとんど唯一の若手だったので
ゆくゆく、高齢化していくNPOの専従事務職長を勤めて欲しいと言われていた。

 

ところが、その時代
私は私で、私なりの「ライフ」の問題が勃発していた。

大阪での仕事をやめ、仙台の実家にいるのもキツくなった頃
私は身「ライフ」1つで、何の「コース」の思い描き無く
東京に出てきた。


最初は五反田の1.5畳の違法シェアハウスで、次は巣鴨の4畳の合法シェアハウスで
在宅ライターの仕事や、このNPOから時おり降ってくる仕事で
ギリギリ食っていた。
(その後、別なNPOの正規社員になってからは、国立→錦糸町と、普通のアパートに移った)

 

結局、そうなったのは東京の家賃が高い云々ではなく
大阪でのあまりに強烈な暮らしから(あまりにブラック企業な)

根本的にひどく疲れ切っていたのであり
それどころか
一時的な疲労、鬱の問題ではなく
もっと根本的に、何かのっぴきならぬところで、自分が社会に着地していないことを
自覚していた時期でした。

そこで、生活費を極限まで下げた上で
在宅ワークや、NPOなどという、一般社会と異なるモードのなかで
どうにか「ライフ」だけは維持しようと考えていた。

そうしてるうちに、大学院に通い始めた事は
私にとってのライフとコースを接続しようと言う
一応の試みだったと言えるかもしれない。
(結果的に、その接続に失敗し、人文学で「食う」ことは私のコースにはならなかった)


結句、私が
広汎な発達障害の疑いだの、アスペルガーだの、ADHDだの
実際に診断を受けて、すべてを振り切るように大阪に吹っ飛んでいくのは
この直後ではあるけども
大学とも都内で関わったNPOとも次々に関係を切るなかで
私は「ライフコース」について、こう思っていた。

なぜ、自分が
東京の再開発に怯える人たちの支援活動をしなくてはならなかったのか?
私は、彼らの、いま現在の「ライフ」については
最大限に守られるべきだし、共感している。

しかし、彼らの「コース」について
私は共感するべき理由を持たない。

彼らがどのような「ライフコース」を生きようと頑張ってきて
それが再開発により阻まれようとしているとしても
どうも私に、そのことの痛みのようなものが無かった。

自分にとってはライフを正当化し、流し込める「コース」が
どこにも存在しないことこそが問題で
なぜ、中高年世代の「ライフコース」を、違法シェアハウスやら、心療内科通いの自分が
擁護する必要があろうか…と思っていた。

挙げ句、自分にとってのライフコースは
学者としてのパスポートを掴む方向ではなく
アスペルガーADHD、鬱気質」な現状を自覚し
そのなかで
破綻の無い人生を、淡々と歩むこと、それこそが発見されつつあるコースだというのに。

 

他人のライフとコースの接続のズレを心配する以前に

私の「ライフ」は、どのコースにも繋がっていなかったのであり

密かに掴まれた「コース」こそが、精神障害者手帳3級であったことを

誰にも説明できず、1人、閉じこもるようになった。

 


丁度その頃、社会的には東日本大震災が起こったり
だいたい私と同い年ぐらいの人たちが、結婚しはじめたり、子どもを生み始めたりしていたが
そういう人々の喜怒哀楽にも、私は凄まじく鈍感と言うか
あえて距離をとるようになっていた。

つまるところ、彼らが、どのようなライフコースを思い描き
それが実現したり、しなかったりする、という
トータルの総体に対して
関心や共感が持てなかったのだろう。

私は社会一般の、同世代の人々が考えることに

ますますリアリティを失っていった。

彼ら、彼女らのライフとコースは、私のリアリティとかけ離れていた。


他方では私より少し年長に
ロスジェネ世代の存在があった。
別にすべてを就職氷河期のせいにするわけではないが
彼ら、彼女らのなかには
未だ社会のなかに足場を掴めず、結果的に、NPOや社会運動、学者崩れみたいな方向に流れてきた人もおり
「社会の一般性」の外側に安住する意味で、私の苦しい時期の友人となった。

ところが、よくよく話を聞いて見ると
彼らは「思い描いていたライフコース」が「無かった」ことに
いつまでも怒っているのであり
その思い描きの発想そのものは
先行する世代や、結婚し子どもを育てている人たちと何ら変わることがないらしいと
知るようになった。

確かに思い切り、相対化してしまえば
そもそも、なぜ、そのようなライフコースを「思い描こうとするのか」
それしかない、と思うから
勝手にキツくなったり、社会を恨み続けるのではないのか?
と言えるのかもしれないが
それが「できない」こと自体が、彼ら彼女らの苦しみなのだと知り
ますます分からなくなってきた。

 

要するに彼ら彼女もまた

ライフと、コースが、上手く接続されないことを問題にしていたのだ。


そして地方移住を検討する時期に入り
そのなかで「青森」をチョイスして移住した。

 

地方に来ると、そもそも、私が東京や大阪で、感じたり、見聞きしてきた
都会に住む若者たちのライフコースの思い描きと不可能とか。
あるいは、付き合いの中心だった大卒、院卒の若者たちの発想と

津軽の人々の、ライフコースの発想がえらく異なることを実感し
驚いている次第です。


都会の人々が描いていたコースが、逆に非現実的なものに思えることもあれば
津軽の若者たちのコースが
ずいぶんと厳しいモノに感じられたりもするのですが。

 

いずれにしても不思議なのは
人生は「ライフ」のみによって存立することは難しく
それはたいてい、何がしかの「コース」とセットになっているらしい
という話です。

これは私たちにとって幸せな事なのか、不幸な事なのか
よくわかりませんけど
どうなんでしょうか。

「コース」があろうがなかろうが
「ライフ」は、どこの国、どの時代の人にも、必ず存在する。

とすれば「コース」を用意できない社会は不幸なのか、ダメなのでしょうか??
「コース」は多様であれば良いのでしょうか。
その場合、自分がどんな「ライフ・コース」を生きようとしているのかを
他人に説明しなければならないのだろうか?

ライフが大切であることに万人が合意するとして

コースも同じように、尊重されているのでしょうか?

特定のコースばかりが尊重されたり、奨励されたり、してはおらぬかい?

そして
コースというのは、思想や哲学とは異なる、もっと具体的な何か、社会や人との関係であるらしいということ。

だいたい、ここら辺まで分かってきた。

 

政治の話などについて過去、書いたけど

左派の衰退っていうのは、思想や哲学を「コース」として提示できなかった

提示するのが難しいっていう事情ともまた

重なって参りますわね。

座間9遺体事件について

幸か不幸か、私の周囲には
定期的に「死にたい、生きていたくない」の声を発する友人がいるのですが
振り返って見ると
私はその人に、ずっと、生きていることに意味があるか、無いか
自分は幸せになれそうか、常に不幸か
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない、わからない。
とりあえず、決断(結論)を下さず
事態を先延ばしにしろ!時間を稼げ!!!としか、言えていない気がします。

今日は死ぬしかないと思った、でも、決断しなかった
明日は死にたくなかった
明後日は楽しいことがあった、でも、この生に意味があると思い込めなかった
次の日は、死にたいと思った、でも、決断しなかった
その次の日は。。。。

みたいでも、別にいいじゃないかとしか、言わないことにしている。


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うまく書けるとは思えない…
何かを考えるとき、じぶんの「型」を使って考えてしまうので
結局、いつもの通りなのですが
何か、ザワザワするものがあるので、遅ればせながら考えました。


哲学の観点からして独裁的状態とは
どういう状態なのか?

いきなり、ここから始めたい…。

独裁的な状態とは
真善美(何が真実か、何が善いか、何が美しいか)ー(何が嘘か、何が悪か、何が醜いか)
が予め決まっていて
それ以外の価値観を持つことが難しいような
国家、システム、組織などのことだと思います。

たとえば、日本は北朝鮮のような独裁国家ではないと
人は言いますが
仮にも日本は、かなり経済合理性がモノを言い、あらゆるモノゴトに尺度を与える世界ですし
経済システム、政治システム、法システムなど、あらゆるシステムが貫徹する世界ですから
そのシステムの「外側」に抜け出て
何かを考えることが案外、難しい世界かもしれません。


この説明で、私はあえて「社会」という言葉を避けてみましたが
(国家、組織、システム、世界と書いた)
哲学史のなかで「社会」はかなり独自の使い方をされる言葉で

例えば
国家ー(社会)ー個人
組織ー(社会)ー個人
システムー(社会)ー個人
世界ー(社会)ー個人
経済ー(社会)ー個人
政治ー(社会)ー個人

などのように、いわば、大きな何かと、個人の間に入る
クッションみたいなものを、「社会」と名指したりします。


勘の良い人は
過去3記事の私のトーンから、すでに先が読めるかもしれませんが

たとえば
「組織」を当てはめましょう。

組織が醸し出す価値観(真善美)と、その個人が持たんとする価値観(真善美)が
一致しているうちは
特に問題がないですが
組織のそれと、個人のそれが部分的にでも食い違う場合
その個々人が、じぶんの価値観を、いきなり「組織」という大きなモノと対立させるのではなく
その中間項の「社会」のなかで
自分の価値観を、他人(同僚や友人)のそれと交わらせてみて
微調整したり、互いに影響し合ったりするような状態をイメージします。

もし、この中間項の「社会」がなければ
個人は、いきなり「組織」と対立して、そこを離れたり、抑圧されてしまったり
単に「組織」が醸し出す価値観を
いかに上手く忖度して、いい具合にポディション取りに成功するかの話でしか
なくなってしまいます。

なので、個人と、大きなモノゴトとの間に
「社会」が機能していれば
俗にいう、風通しのいい組織になりますが
仮に「社会」が存在しないとすれば
それは独裁的な状態に近いと考えられます。



哲学や歴史学の世界では
市民社会がどれだけ分厚いか?」が議論になり
西欧社会には、それが分厚い、と言われがちですが

要は、市民「社会」が機能していない世界では
変な独裁国家、経済に過度に依存したシステム、独裁的組織(ブラック企業、ブラック学校?)
が出来やすく
排斥的な、ギスギスした状況を生みやすいので
多少、人工的にでも「社会」を、どうデザインするかが、あらゆる専門家の間で
テーマになる由縁だと思います。

特に西欧世界は、戦争がどこから生まれるかに自覚的ですし
日本やアメリカでは、個人的な能力の高さこそをエリートの条件としがちですが
やはり西欧世界では、いかに「社会」をデザインできるか
金を作り出せる奴より、場を作り出せる奴のほうが尊重される空気はあると感じます。



また余計なことをベラベラ話したように思われそうですが
今回の座間の事件では
パソコンやスマホの向こう側にいる個人(とくに10−20代の若者)が
個人的な状況から
死にたい、生きていたくない、と切実に思ったとき

「社会」なる中間項を経由せずに↓

この日記の文脈で言えば
他人(友人や同僚)の価値観と、自分の観念を
擦り合せて、互いに影響させることをせずに。

いきなり究極の結論(死なせて(殺して)あげる)と
直接つながってしまったことが問題のように思えます。



個人が、死にたい、生きていたくないと思うのは
多かれ少なかれ

国家ー個人
組織ー個人
システムー個人
世界ー個人
経済ー個人
政治ー個人

など、個人が無数の巨大なモノとの関係のなかで
うまく自分の位置を、確保できないことと
関係しているはず、、、、です。

例えば
学校のシステムは、成績の良し悪しや、素行などを通じて
個人に評価を下します。
経済のシステムは、年収や職業、経歴、資格などを通じて
個人を評価します。
法のシステムは、すでに法に定められていることを基準に
その個人の行いを例外なく裁きます。
家族のシステムさえ、そうした無数のシステムにすでに位置を定められた我が子を見て
「よく頑張ってる」とか「全然だめだ」と追認する程度かもしれません。

そういう風に
自分の位置を、勝手に定めんとする尺度に対し
個人は常に
「いや、そうではないんだ」
「そういうことではないんだ」
「「ほんとう」は、違うんだ」
と、言いうる自由を持っているはずです。

というか、モノを考えるとか、自分が自分である
ということは
外部のシステムが位置づけてくる、アレコレの尺度に対して
「自分は「そう見えるかもしれない」けど「ほんとうは」違うんだ」
と言い始めようとすることでしか
始められません。

それが全く無い人、外部システムが定める尺度のなかで、自分の位置を
適切に定位できて、問題がない人には
そもそも「考える」動機や、自己アイデンティティの悩みなど、生まれないはずです。



ところが、もし「そういうことではないんだ」と言おうとしても
外部の価値観(真善美)への、個人的な価値観の抗いが
1対1の関係で
直接結びつくしかない世界では

どういうわけだか、必ず、個人の側が負ける、ように出来ているようです。
唯物論と観念論、現象学だと思うけど、詳しく書けないので省略)

個人が負けるとは
負けて、個人的な価値観の抗いを、ひっこめて
外部システムが定める尺度の内部でのポディション取りに成功するか
それこそ
死んでしまいたい、生きていたくない、と言うしか無い…

だから独裁的な状態ほど、怖いモノは無いと言われるのだと思います。



死んでしまいたい、生きていたくない、と
言ってはいけないのではなく
いきなり、それを結論に直結させたり、大きな外部システムとの(敗れると分かってる)戦いに
持っていくのではなく
「社会」のなかで、それを他人に試す(言って見る、言い合ってみる)ことが
なぜか出来ない状態になってるのが
どうも問題のように思います。

端的に、重い話ほど、真剣な話ほど
親しい人との間で「してはいけないことになってる」のかもしれない…し。

恐らく、座間に行って亡くなってしまった人たちは
誰に言っても無駄だと言うか
誰に言っても、どうせ、また外部システムのいずれかの基準を持ち出して
自分を否定されるだけだとか
テキトーに流されて終わるロールプレイにしかならないと
先の先の先まで、読み切ってしまった人たちなんだろうな…と感じます。

(その読み切り、は、妥当だったのかもしれないが、妥当でなかった可能性も高いだろうが)


最後に、私も人のことを全く言えないですけど
「社会」とか、面倒くさいモノを、全部ふっとばして
最終「決断」に至るって言うのは
案外、わかりやすい気持ち良さがあるのが怖いです。

「決断」っていうのは
その先にあるのが、敗戦であり、破局であり、死であると分かり切っていたとしても
ぬるぬると
終わりも無ければ、勝利もない戦いを続けるより
魅力的に見えることがあります。

何かを「決断」しようとしてる人間は
なるべく多くの人の意見を聞いて決断してるように見えながら
ほんとうに決断が近づく瞬間には
ある1つの方向以外は、「見えないように」シャットアウトしていかなくてはいけません。

他人の声に耳を傾けたり、自分の意見が妥当かどうか議論すると
決断が揺らぎ、事態が複数化するので
揺らがないように、複数化しないようにするためには
どこかでシャットアウトしなくてはいけません。

ある方向へ向けて、考えをまとめていくんですよね
決断しようとする組織や人間は、、、、
旧日本軍みたいに。
そして、そのための大義大きな物語りをつくる。

今日の話の文脈だと
この揺らぎとか、複数化の契機が「社会」っていう中間項だろう
という感じですね。

…ということで、冒頭の言葉に戻って、ループします。

「中」意識は、どこへ?

そろそろ選挙熱も冷める頃合いと思いつつ
少しずつ普段、考えていることが整理されてきて
自分なりに、結びついてきました。

 

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私なりの理解だと
最近の企業や政治家が前提にしてることは

日本のなかに幅広く存在した「中間層」が溶解し
国民のほとんどは「低所得層」
もしくは、それ以外は「富裕層」に分解してしまった、という前提だと思います。


ですから、商品を売るときに
「BP(ベストプライス」とか言って、納豆を40円とか、食パンを70円とか
すごい安い価格で販売する一方で
「PP(プレミアムプライス」で、納豆298円とか、食パン398円みたいな
棚がつくられていく。

いままで、コンビニやスーパーでは、その中間の価格帯に商品が集まっていたのに
「中間」が分解していき
すごく安く人が暮らしていくための食品や家具、日用品がある一方で
その何倍も値段が高いものが陳列される。

安い店と、中間の店と、高い店がある、ってよりは
1つの企業のなかで、「激安」と「激高」の二種類の陳列棚をつくった感じがします。

政治活動でも、低所得層向けの政策や言葉があり
逆に、富裕層を満足されるためにどうすればいいか(これが政治では必ずしも上手くいかない)
に分かれていきます。


こういう社会を、どう見ればいいか?ですが
恐らく西欧の常識からすると
「当たり前」の社会に、1990年以降の日本も突入したのだと
言いたくなるかもしれません。

向こうの人々は
もともと2割程度の「中流階層」と、0.1%ぐらいの「上流階層」がいて
残り8割ぐらいが「労働者階層」なのだから
日本だって、そうなればいいじゃないか。という。


しかも英独仏(新興のドイツを含め)の社会では
階層移動が極めて困難という事情があります。

上流の家に生まれた人は、ずっと上流で
中流はずっと中流
労働者階層は、ずっと労働者

入れる学校のタイプや、就ける仕事の種類が
当人の「実力」とは全く違うところ
家柄とか、文化資本の分厚さで決まってしまう。

それは残り8割の労働者について
凄まじく不幸で、日本やアメリカは、タテマエ上は「頑張れば上昇できる」んだから
西欧は遅れてると言いたくなるけど

ただ、ずっと上流であり中流である人は
常に労働者階層の人々が、心地よく働き、生きていくための
地域社会や企業社会を、つくる義務を負っています。
ずっと労働者階級である人たちは
そのような義務を負っていない、自分の損得と、家族の幸福のみを追求する人生を歩むことが
許されている。

だからエリート(他人や社会全体を成立たせるために働く人)と
非エリート(自分とその家族の生活をよくするために働く人)が
分離された社会は
それなりに安定してきました。

最近は、ドイツでも、極右政党が躍進してますし
フランスをフランス人の手に!!とかいう人が増えてますが
労働者階級の人たちは
中流や上流の人たちに支えられる社会をぶっ壊したいわけじゃなく
移民や難民が「労働者階級の内部に入ってくる」ことに反発したいだけ…。

別に政治家が別荘で不倫してようが、何万円のワインを飲んでようが
関係ありません。
それでも「エリート」としての仕事をしてくれさえいれば、関係ない。

 

じゃあ日本はどうだったか、考えると
かつて1970-80年代に、日本国民のほとんど9割近くが
「うちは中流家庭だ」と答えていた時代がありました。

国民の多くが、自分を低所得だとか、富裕だとか思ってない。
とりあえず聞かれれば中流だと答える。

よく最近の若者は、高度経済成長や、親の時代の話を聞かされて

「昔は良かっただろうね、だって、自分の給料も、周囲の環境も、時間が過ぎるほど、大きく肥えて整っていくことが前提じゃん?そりゃ、頑張るよ。いまは、全体が小さくなり、自分の働く場所だって無くなっていく時代に、ガンバレ、ってのは辛いよ」

と言ったりしますが
中流意識は、別に伸びゆく日本社会や、自分の(経済的)可能性への満足ではなく
「まあ、今の暮らしは人並みだ」
という、もっと漠然とした満足感なのだと思います。


言うまでもないことですが
そういう時代の日本国民は、非常に寛容です。
政治の話をしたって、隣国とは仲良くすべきだし
再分配の話だって、できる限り弱者を社会全体で支えなくてはならないと考えます。
社会的には「安定」している。

西欧の社会は、2割の中流と、8割の労働者で、うまく回る伝統社会で
そもそも戦前期までの日本も
そういう社会でした。

ところが日本は、戦後の高度経済成長で出来上がった
1970-80年代の状況
9割が中流だと思える社会、こそ、日本が最も寛容で、日本人が幸せだった時代と考えてしまう。

そのせいで、1990年代以降、中流意識が崩れて
社会が「西欧化」、「戦前化」へ向かうと
全体が不安定化、不平等化している不安に駆られ
富裕層の足を引っ張ったり、政治家や学者が、「庶民感覚から離れている」という理由で
その座を追われたりする。
「庶民感覚」の外側に出ているエリートに、回り回って「庶民貢献意識」をいかに植え付けるか?
という戦略がない。
「庶民感覚」から離れていること=悪だと言う、すごく狭い社会になっていきます。

当の富裕層の側も
自分は「頑張って、勝ち抜いて」、いまの地位を得たという感覚がありますから
競争に敗れた相手に何かを施すとか、社会全体をマネジメントする責務を
自分が負ってる感覚がありません。
また西欧的エリートの定義が、文化的資本の分厚さ、人文学的教養であるとき
日本のエリートの定義は、実は「金」だったりするので
けっこう悲惨…

こうして、日本は、戦前日本のような、西欧のような「階級社会」では安定しないので
やはり1970-80年代をモデルとする「総中流社会」でないと
ダメだと言う話になりますが
しかし、政治経済的には、国民のすべてが高い水準で「総中流」の社会など
世界のどこにも存在しないのです。
たまたま、色んな条件が重なり、出来上がってしまった日本の好条件(70-80年代)を
モデルにせねばならない不幸を感じます。

気持ち的にどうか、というより、無理だと。
金と経済成長によって、社会が安定し、人々の心が安定する社会しか、ありえないことを
私は「浅ましい」と思い
そういう日本人があまり好きではありませんが、気持ち的にどう、じゃなくて無理な気がします。

 

ここで政治家(政党)には複数の道がある。
日本社会の「中」意識が、溶解してることを前提として
どう振る舞うか?です。


まず第一。
中意識が溶解してるのだから、戦前期の日本や、いまの西欧のような
一部のエリート、一部の文化資本を安定させつつ
彼らを全体が支えていく
また、エリートたちは、支えてもらっている庶民・労働者にリターンを返すのだという
動機付けで、経済活動、政治活動、文化活動、地域活動を行うという
社会合意です。

私は、これを推しています。
政党的には、じつは、反安倍の自民党の一部、希望の党と立憲民主の一部。


第二に。
アメリカ型の社会でいいじゃないか、ということです。
「夢を持って、頑張れば」誰もが上昇できるし、下降する社会である。
「全員」を中流にすることはできないが
勝者には果実を与える、という動機付けで、回っていく国のありようです。
そのために、まず既得権益者から、既得権益を剥奪し
庶民に公開、分配するところから始めます(大阪、名古屋の政治風土)

維新の会は、実はこれではないかと私は思ったりします。
このやり方は、私は好きではありません。


第三に。
やはり日本は総中流社会が最も安定していて
いま、それが壊れていることが不安の温床であると。
だから、総中流を、かつてのように「経済成長」で作ることは難しいかもしれないが
何とか政府の分配や、人々の「温かい繋がり」で、自分は排除されてるわけでないと
人々が「思えるような」社会にするため(実は70-80年代は中流「幻想」だったのだから「思えること」は大事)
知恵を絞り、努力をしなくてはいけません、という発想。

大雑把に、共産党社民党、実は公明党がこれで、私はここにも共感があります。

 

第四に。
実は、日本の中流社会は、まだ続いていて、少しぐらい経済の調子が悪いことはあっても
家族、企業、地域伝統のつながりをベースとした安定社会が続いている。
その社会を守るため、定期的な増税と再分配が必要だし
外交は日米同盟の堅持、周辺有事への備えが必要で
現状、それを維持するために我々は働いている。

(もっと本音で言えば「見せかけの中流意識」を壊さないように振る舞うことこそが、大事なのだ)

これが自民党だろうと…。

 

もちろん、4つしか道が無いわけじゃなく
5つ目、6つ目(ドイツのみどりの党的な発想)だって、あっていいと思うし
他にも考えられる道は多いと思います。

台所のリンス(現象学

うーむ…
暫定的な問題ですが、いまのところの私の考え。。。

 

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外国人と一緒に
シェアハウスに住んでいたとします。

たとえば、仕事から帰ってきて
ふと台所に向かったら、まな板の上に、リンスが乗っかってたとします。

はて、、、リンス??

そのとき、人は、どう思うでしょうか?

 

ある人は、そーか、彼の国では、洗髪と食器洗いの洗剤が「同じ」なんだなー
リンスで食器を洗ったのかー、おもしろーーい!!

と思うでしょうし

ある人は、リンスで食器を洗ったのか!?これはヤバいぞ!!
彼の国ではそうなのかもしれんが、日本では違う!!!
彼に注意せねば!!!

と思うでしょうし

ある人は、そっかー、何か、事情が重なったんだろうなー
ゴキブリが現れて風呂場から追いかけて、液体で動きを止めようとして
リンスを持ち出したんだろうなー

と思うかもしれませんし

ある人は、そもそも台所にぜんぜん関心が無いので
台所にリンスがあることに、さして違和感を感じない

かもしれませんし

ある人は、台所に凄まじい倫理観を持っていまして
神聖なる台所にリンスとは!!!
絶対に許せん!!!
今日こそ、アイツをこの家から追い出してやる!!!

と騒ぐかもしれません。

 

この場合、各々によって「台所のまな板にリンスが置いてあった」ことを巡って
各人の視点、関心、認識が違うことは
常識的に理解されると思うのですが

「台所のまな板にリンスが置いてあった」

こと、そのもの
について
誰もが合意しているような気がします。

人々は、その「事実」に対する見方が異なるだけ、、、
だと考えるでしょう。

私はこれを「客観的な発想」と解釈します。

 


ところが、現象学的発想がありえまして
「台所のまな板にリンスが置いてあった」
ことは
本当なのか?
という問い方があります。

もしかすると、アレは、リンスではなかったかもしれない
何も置いてなかったかもしれない
アレは、リンスの形とニオイをしたレプリカかもしれない

ということも
ゼロではありません。


そういうとき、私たちは
どう言えばいいのか?
言いうることは1つで

「私には、リンスが、まな板の上に乗ってるように「見えた」」

ことだけです。


それが客観的にリンスであるとか、それが非常識的なことだとか
そんなのは、どうでもいい
確かに
私には、リンスが見えたのであり
そのことで
「違和感を感じた」という「私」の感覚があるだけです。

 

この違いは、すごく大きくて
あくまで「リンスが在る」ことは疑っておらず
単に視点や考え方が違うだけだ、という理解と

そもそも「リンスが在る(か無いか)」は
問題にしておらず
「私にはリンスが見えた」
という、自身の感覚から出発していることは大きすぎる違いです。

 

人は現象学的にしか、モノを言えない場合が多いのであり
(幽霊を見た、私は痛かった、私はムカついた、私は辛かった)

それが「客観的に正しいか?」を
問わない作法がありえます。

「私」が疲れて休みたい場合、「みんな」が頑張って、我慢してるかどうか?
は根本的に関係ありません。
「私」は疲れている…。

 

その場合、それでは、リンスが有るか無いかは
所詮「その人の思いなし」に左右されるしかなく
人それぞれ
思いなしが違う以上
客観性とか、共通とか言うこと自体、成立たないではないか!

世の中、言ったモノ勝ちではないか!

と怒る人がいますが

そういう話ではなくて…

 

人は、各々のことを「客観ではなく、現象学的に理解するしか無いが」
でも
だからと言って、自分と異なる他者、自分と相容れない人を排除してはいけない。
その人の「感覚」に同意するかどうかは別として
とりあえず、排除してはいけない。

「違う」から排除するのではなく
「違う」ことを、とくに問わないで
一緒に、その場に居合わせる技術が必要だと思うのです。


私が知る限り
若い世代は、こんなことを記述するまでもなく
かなりの割合の人たちが、当たり前に行っているコミュニケーションです。

ただ、そういう(現象学的)コミュニケーションの「貴重さ」に
ある年代より、上の人たちは、なぜか気が付きにくいように思います。

そのことで、毎日、すっごい、疲れます。


若年層の課題は
「そういう前提を、踏まえた上で、お互いに、どう楽しく生きるか」
であるのに
年長者の課題は
「リンスがあるのは事実だろ!それを、どうするんだ!!!」
と、言い続けている感じ…。


この微妙だけど、大差、伝わりますか?

バーチャルリアリティについて

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写真は平壌のビアガーデンだそうで…

 

プールに行きたいんですけど
遠すぎて、それ行っちゃうと休日の半分ぐらい潰しちゃうので
すっごい、すっごい、、、躊躇してます
水着と帽子、もうヨコに準備してるんですけどね。腰が重くて。
これ書いてます。


私、テレビはほとんど見ないですが
ネットニュースは嫌でも目に入ってしまって
政治関係の動きと言うか、記事が、ひどいな…と感じています。

本来、腰が据わってるなら
淡々と般若心経とかやってるはずで
政治や経済のアレコレに、逐一どうのこうの言わないと思いますが
でも、考え方(哲学)や、コトバ(文学)として
最悪のことをやってる首相と、メディアだな…と感じました。

あまりに質が悪すぎる…。


ザッと私の考えでは
世の中で、苦しい立場にある人、自分は社会のなかで蔑ろにされてると思う人を
包摂することに
政治のひとつの目的はあります。(他にもある)

耳障りよく言えば、弱者に手を差し伸べる、民衆のための政治
ですが
シビアに言えば、世をそれなりに納めるためには、不満分子の爆発、治安流動化は
避けなければなりませんので。。。

 

1950-60年代ごろ
そういう民衆に説得力を持ったのは左翼の言説でした。
社会党共産党
高度経済成長があり、拡大してゆく経済のパイがあり、しかし、そこに自分は含まれない
と思う地方の労働者、農民、都市の下層労働者…
彼らに、説得力を与えた「考え方」と「コトバ」がありました。

それは当時のマルクス主義とか、社会主義の発想に行き着きますが
今日でいうボランティア活動、NPO活動、地域活動みたいな話です。
それと高福祉社会。

高度成長の富を前提に、低負担高福祉の社会をつくりつつ
企業サービスや行政サービスに頼り切りにならない生き方(市場からの自由、国家からの自由)。

何か困ったことがあったら、役所にクレームの電話を入れるのではなく
なるべく地域で、サークル内で解決する。
家電製品や農機具を、1つの家庭事に全部揃えるのではなく、シェアする。
公民館や社会教育、勤労福祉会館などを使って
知識のシェアや、仲間づくりを進める。
職場にも、どんどん労働組合、レクレーションの場をつくる。

国家(行政)が、個人の自立を助けるのではなく
国家(行政)は、社会(サークル)が力を蓄えることを助ける。


問題点もたくさんありますが
市場経済に個人をいきなり投げ込むのではなく
クッションのような「優しい社会、仲間関係」を間に入れる発想です。

この時代、反政府、反資本主義とは、こういう理想を含んでいたように思います。

「現実」が、資本主義・対米従属(保守)だとすれば
「理想」(未だ見ぬもの)を目指す思想は(革新)と言われました。

 

1970-80年代ごろ
政治や思想、哲学については深く考えない、稼いで消費することが相応に説得力を持ちました。
一応、タテマエでは後期高度成長、バブル、一億総中流の社会。
確かに日本のなかにも弱者はいますが、明らかに少数。
企業サービス、行政サービスが拡大し
地域活動とか、シェア、助け合いのリアリティを失います。
個人主義、マイホーム主義へ)

左翼政党は、「弱者探し」のために、女性だ、障害者だ、被差別部落だ、ベトナム
とトピックスを挙げ続けますが、一般の労働者たちは、そこから離れていきます。

左翼政党が、「弱者探し」、「資本主義の矛盾に傷つく人探し」にこだわるのは
単純に反自民、反保守もありますが
私の考えでは戦争の呪縛が大きいせいだと思っています。

2度の世界大戦は
突き詰めると資本主義の暴走が巻き起こした大惨事である以上
「何か、それ以外のものを人をつなぐ原理に据えなくては立ち行かないのではないか」
という発想は、むしろリアリティを持っています。

社会主義と言えば、スターリンソ連とか、中国共産党とか、北朝鮮とか
すごく極端な例が挙げられますが
根っこを掘り起こすと「資本主義以外にマシな、やり方は無いのか?」の模索を
左翼政党が行っていました。

それが50-60年代、戦争の記憶も新しく、経済成長も不十分だった日本では
それなりにリアリティを持ったのに
70-80年代、戦争の記憶も薄れ、経済成長が庶民の生活を変えた時代に
リアルを失ったのは、当然かもしれません。

 

そして、90年代の行き詰まりを経て
(東西冷戦の終結社会党の解党→大連立でメチャクチャ→左派解体)

何のかんの言っても、低負担高福祉の発想は
「資本主義経済を否定しつつも、経済成長を前提にする」という左派の大矛盾でした。
経済成長が明らかに終わったとき
残されるのは単純な、高負担高福祉か。
もしくは低負担低福祉で、徹底的にボランティア、NPOの社会にするしかないのか。

いやいや、経済成長は、まだ続くんや!日本最強や!!
原発が足りないから経済成長できへんのや!!
日本に確信が持てないから、父や母が自信無さそうに暮らしてるから
若者がオウムに行き、援助交際するんや!!
日本を取り戻せ!!!!
という右派のみなさま…。
政権の奪い合い。ゴタゴタ。

 

00ー10年代(いま)
民衆に対して説得力を与えているのは右翼の言説…
というより右翼、保守ですらない
全くジャンクな考え方と、コトバで、どうしてこんなことになったんだろうと
思う次第です…

なにせ状況は90年代より悪く
下手すれば、この国は、高負担低福祉の国へ(先の世代は明らかにそうでしょう)

そうなれば、パイの奪い合いで
アイツらを排除しろ!アイツらはズルをしている!俺のほうが苦しいんだから、よこせ!
の奪い合い、大合唱、排除の論理…。

 


ああいう、北朝鮮について語る安倍晋三国連スピーチの「恥ずかしさ」は
いったい、何なんだろう。
それなのに、ああいうものが日本のなかで、相応の支持を集めてるのは
何なんだろう。。。と、気分が沈んできました。
そもそもJアラートって、なんで鳴らしてるんだ…


この国で起きてることは、バーチャルリアリティであり
「真実」というより
「何が実質的に「真実らしさ」を与えるか」なんだと思います。

質がいいバーチャルリアリティ(街のイルミネーション、楽しいゲーム)もありますが
他国や歴史を歪めて成立つ
バーチャルリアリティは、最低だと思います。

国のかたちが経済に依存しており、その経済が明らかに縮んできたとき
ロクなバーチャルリアリティを紡げない
というのは、政治家のせいなのか、市民の想像力のなさなのか、なんなのか。

わざわざ哲学の認識論を持ち出すまでもないですが
ただ1つの「真実」を、私たちは特定できません。
なので、誰もが「真実らしいと思えるもの」を暫定的に選んで
生活したり社会を営んでいます。

ところが、その背景には
「何を真実だと思いたがっているか」
「何を真実ということにすれば、話が分かりやすいか」
があります。

日本は、政治のせいだ、マスコミのせいだ、何のかんの言いながら
けっこう半数ぐらいの人たちが
分かりやすく、単に煽動的なバーチャルリアリティ
「あえて」
選択したがってるように思います。

そうすれば、この国の何が、行き詰まっているのか
自分自身の生き方、発想の、何を変えなきゃ行けないのかの
苦しい課題から目をそらせるから。

敵が外にある限り。


最後に、、、
あえて、社会(政治)思想史をウダウダ書いたのは
50-60年代の理想論は、確かに牧歌的な理想だったかもしれませんが
私は、質がいいバーチャルリアリティだったと思います。
何より、国民1人1人が「まともな人間になろう」と努力しないと
成立たないような発想を持っていました。

ああいう左翼が理想とした社会を作るには
1人1人それなりに教養がないといけないし
他者に寛容でないと無理です。

あの時代の日本には
戦争が終わり、衝撃的なことが幾つも明らかになっていたはずです。
朝鮮や中国やアジア各国で、何百万、何千万の民衆を
日本人が殺害してきたことや
日本国内でも、空気に呑まれて人を非国民と名指したり
本当はおかしい、間違ってると思っても、それを「おかしいじゃないか」と
言えない自分がいた…

それらをトータルで「仕方なかったやん」としか言えない
日本人、己の浅ましさ。

「日本」とか「日本人」とか「近代合理主義」みたいなものが
根っこから揺らぎ
「善く生きるとは、どういうことなのか」
「他者を侵さないとは、どういうことなのか」
「強いとは、どういうことなのか」
「それは新しくやってきた自由とか平和憲法とか民主主義とか、コカコーラと、どう関係するのか」

を、根本から考えようとしたとき
高度成長の中核から弾かれた人たちが
あえて理想的で、あえて難しいバーチャルリアリティを選ぼうとしたことを
一応、尊敬します。


そのことと、いまの、とんでもない落差を考えて欲しい。
いま、多くの国民が浸ってるバーチャルリアリティ
自分がマシな人間になるとか
思慮深くなることとは、全く無関係に紡がれていて

悪いのは相手であり
排除すべきは奴らであり
困ったことがあったら、役所に、学校に、企業、国連にクレーム
とは、ずいぶん程度が低い気がします。

自分自身が、マシな人間になる、っていうオプションが含まれてないわけで…。


うーん…
プールいこう