村上春樹「便宜的なぼく」について

村上春樹の文章から導かれることと、自分の生活のつながりを書いてます

「中」意識は、どこへ?

そろそろ選挙熱も冷める頃合いと思いつつ
少しずつ普段、考えていることが整理されてきて
自分なりに、結びついてきました。

 

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私なりの理解だと
最近の企業や政治家が前提にしてることは

日本のなかに幅広く存在した「中間層」が溶解し
国民のほとんどは「低所得層」
もしくは、それ以外は「富裕層」に分解してしまった、という前提だと思います。


ですから、商品を売るときに
「BP(ベストプライス」とか言って、納豆を40円とか、食パンを70円とか
すごい安い価格で販売する一方で
「PP(プレミアムプライス」で、納豆298円とか、食パン398円みたいな
棚がつくられていく。

いままで、コンビニやスーパーでは、その中間の価格帯に商品が集まっていたのに
「中間」が分解していき
すごく安く人が暮らしていくための食品や家具、日用品がある一方で
その何倍も値段が高いものが陳列される。

安い店と、中間の店と、高い店がある、ってよりは
1つの企業のなかで、「激安」と「激高」の二種類の陳列棚をつくった感じがします。

政治活動でも、低所得層向けの政策や言葉があり
逆に、富裕層を満足されるためにどうすればいいか(これが政治では必ずしも上手くいかない)
に分かれていきます。


こういう社会を、どう見ればいいか?ですが
恐らく西欧の常識からすると
「当たり前」の社会に、1990年以降の日本も突入したのだと
言いたくなるかもしれません。

向こうの人々は
もともと2割程度の「中流階層」と、0.1%ぐらいの「上流階層」がいて
残り8割ぐらいが「労働者階層」なのだから
日本だって、そうなればいいじゃないか。という。


しかも英独仏(新興のドイツを含め)の社会では
階層移動が極めて困難という事情があります。

上流の家に生まれた人は、ずっと上流で
中流はずっと中流
労働者階層は、ずっと労働者

入れる学校のタイプや、就ける仕事の種類が
当人の「実力」とは全く違うところ
家柄とか、文化資本の分厚さで決まってしまう。

それは残り8割の労働者について
凄まじく不幸で、日本やアメリカは、タテマエ上は「頑張れば上昇できる」んだから
西欧は遅れてると言いたくなるけど

ただ、ずっと上流であり中流である人は
常に労働者階層の人々が、心地よく働き、生きていくための
地域社会や企業社会を、つくる義務を負っています。
ずっと労働者階級である人たちは
そのような義務を負っていない、自分の損得と、家族の幸福のみを追求する人生を歩むことが
許されている。

だからエリート(他人や社会全体を成立たせるために働く人)と
非エリート(自分とその家族の生活をよくするために働く人)が
分離された社会は
それなりに安定してきました。

最近は、ドイツでも、極右政党が躍進してますし
フランスをフランス人の手に!!とかいう人が増えてますが
労働者階級の人たちは
中流や上流の人たちに支えられる社会をぶっ壊したいわけじゃなく
移民や難民が「労働者階級の内部に入ってくる」ことに反発したいだけ…。

別に政治家が別荘で不倫してようが、何万円のワインを飲んでようが
関係ありません。
それでも「エリート」としての仕事をしてくれさえいれば、関係ない。

 

じゃあ日本はどうだったか、考えると
かつて1970-80年代に、日本国民のほとんど9割近くが
「うちは中流家庭だ」と答えていた時代がありました。

国民の多くが、自分を低所得だとか、富裕だとか思ってない。
とりあえず聞かれれば中流だと答える。

よく最近の若者は、高度経済成長や、親の時代の話を聞かされて

「昔は良かっただろうね、だって、自分の給料も、周囲の環境も、時間が過ぎるほど、大きく肥えて整っていくことが前提じゃん?そりゃ、頑張るよ。いまは、全体が小さくなり、自分の働く場所だって無くなっていく時代に、ガンバレ、ってのは辛いよ」

と言ったりしますが
中流意識は、別に伸びゆく日本社会や、自分の(経済的)可能性への満足ではなく
「まあ、今の暮らしは人並みだ」
という、もっと漠然とした満足感なのだと思います。


言うまでもないことですが
そういう時代の日本国民は、非常に寛容です。
政治の話をしたって、隣国とは仲良くすべきだし
再分配の話だって、できる限り弱者を社会全体で支えなくてはならないと考えます。
社会的には「安定」している。

西欧の社会は、2割の中流と、8割の労働者で、うまく回る伝統社会で
そもそも戦前期までの日本も
そういう社会でした。

ところが日本は、戦後の高度経済成長で出来上がった
1970-80年代の状況
9割が中流だと思える社会、こそ、日本が最も寛容で、日本人が幸せだった時代と考えてしまう。

そのせいで、1990年代以降、中流意識が崩れて
社会が「西欧化」、「戦前化」へ向かうと
全体が不安定化、不平等化している不安に駆られ
富裕層の足を引っ張ったり、政治家や学者が、「庶民感覚から離れている」という理由で
その座を追われたりする。
「庶民感覚」の外側に出ているエリートに、回り回って「庶民貢献意識」をいかに植え付けるか?
という戦略がない。
「庶民感覚」から離れていること=悪だと言う、すごく狭い社会になっていきます。

当の富裕層の側も
自分は「頑張って、勝ち抜いて」、いまの地位を得たという感覚がありますから
競争に敗れた相手に何かを施すとか、社会全体をマネジメントする責務を
自分が負ってる感覚がありません。
また西欧的エリートの定義が、文化的資本の分厚さ、人文学的教養であるとき
日本のエリートの定義は、実は「金」だったりするので
けっこう悲惨…

こうして、日本は、戦前日本のような、西欧のような「階級社会」では安定しないので
やはり1970-80年代をモデルとする「総中流社会」でないと
ダメだと言う話になりますが
しかし、政治経済的には、国民のすべてが高い水準で「総中流」の社会など
世界のどこにも存在しないのです。
たまたま、色んな条件が重なり、出来上がってしまった日本の好条件(70-80年代)を
モデルにせねばならない不幸を感じます。

気持ち的にどうか、というより、無理だと。
金と経済成長によって、社会が安定し、人々の心が安定する社会しか、ありえないことを
私は「浅ましい」と思い
そういう日本人があまり好きではありませんが、気持ち的にどう、じゃなくて無理な気がします。

 

ここで政治家(政党)には複数の道がある。
日本社会の「中」意識が、溶解してることを前提として
どう振る舞うか?です。


まず第一。
中意識が溶解してるのだから、戦前期の日本や、いまの西欧のような
一部のエリート、一部の文化資本を安定させつつ
彼らを全体が支えていく
また、エリートたちは、支えてもらっている庶民・労働者にリターンを返すのだという
動機付けで、経済活動、政治活動、文化活動、地域活動を行うという
社会合意です。

私は、これを推しています。
政党的には、じつは、反安倍の自民党の一部、希望の党と立憲民主の一部。


第二に。
アメリカ型の社会でいいじゃないか、ということです。
「夢を持って、頑張れば」誰もが上昇できるし、下降する社会である。
「全員」を中流にすることはできないが
勝者には果実を与える、という動機付けで、回っていく国のありようです。
そのために、まず既得権益者から、既得権益を剥奪し
庶民に公開、分配するところから始めます(大阪、名古屋の政治風土)

維新の会は、実はこれではないかと私は思ったりします。
このやり方は、私は好きではありません。


第三に。
やはり日本は総中流社会が最も安定していて
いま、それが壊れていることが不安の温床であると。
だから、総中流を、かつてのように「経済成長」で作ることは難しいかもしれないが
何とか政府の分配や、人々の「温かい繋がり」で、自分は排除されてるわけでないと
人々が「思えるような」社会にするため(実は70-80年代は中流「幻想」だったのだから「思えること」は大事)
知恵を絞り、努力をしなくてはいけません、という発想。

大雑把に、共産党社民党、実は公明党がこれで、私はここにも共感があります。

 

第四に。
実は、日本の中流社会は、まだ続いていて、少しぐらい経済の調子が悪いことはあっても
家族、企業、地域伝統のつながりをベースとした安定社会が続いている。
その社会を守るため、定期的な増税と再分配が必要だし
外交は日米同盟の堅持、周辺有事への備えが必要で
現状、それを維持するために我々は働いている。

(もっと本音で言えば「見せかけの中流意識」を壊さないように振る舞うことこそが、大事なのだ)

これが自民党だろうと…。

 

もちろん、4つしか道が無いわけじゃなく
5つ目、6つ目(ドイツのみどりの党的な発想)だって、あっていいと思うし
他にも考えられる道は多いと思います。