村上春樹「便宜的なぼく」について

村上春樹の文章から導かれることと、自分の生活のつながりを書いてます

ようやくハルキを書き始める

「君は孤独にはなれている」と大島さんは言う。
僕はうなずく。
「しかし孤独にもいろんな種類の孤独がある。そこにあるのは、君が予想もしていないような種類のものかもしれない」

「どんな風に?」

大島さんはメガネのブリッジを指先で押す。
「なんとも言えないな。それは君次第でかわってくることだから」

村上春樹海辺のカフカ上』p194-195)

 

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うまく調べられないのだが
村上春樹の小説やエッセイは、世界50カ国以上の言葉で翻訳されているらしい。
私が知る限り、日本人でこれほど広く世界で読まれている作家はいないが
面白いことが2つある。


1つは、世界中で読まれているにも関わらず
日本の文壇のなかで「村上春樹」は、まともな評価を受けていないこと。
村上春樹は、芥川賞ももらっていないし
文芸評論家や、研究者、あるいは、一般読書家の間でも、それほど評判がいいとは言えない。

簡単にいえば、村上春樹を読んでいる、ということを
なにか人に言いづらい、微妙に気恥ずかしい感情を私は否定できないのであり
まして、評論や研究を行う人々が
その素材に「村上春樹」をチョイスすることが、どうも許されない空気があるようなのだ。

たとえば、夏目漱石森鴎外を扱うことに学術研究は一生懸命なのだが
なぜかハルキは、ダメっぽい。
熱心な大学生が、大学院に進んで、本格的な文学研究をやろうとして
村上春樹をその素材に選ぶとして
恐らく、その指導教員を探すのに、けっこう苦労するだろう。

たぶん、若い院生が「なぜハルキを扱うのか」を
一通り説明するためには
夏目漱石の話だとか、三島由紀夫の話だとか、近代文学史とか文体論だとか
社会学とか哲学とか、現代社会論とか、個と集団とか、精神分析の言葉だとか
そういうことを
色々混ぜ合わせて「学術的に」仕立てないと
なぜ、ハルキを学術的に扱うのかが、うまく了承されないような気がする。たぶんだけど。

漱石とか三島と言えば、学術的に何かが共有されて進行していく気がするのだけど
ハルキと言っても、それ単体が「なに」であるか、うまく説明できない。

 

2つは、恥を承知で言えば
私は村上春樹を読めるようになるまで、というか、一応の理解を得るまで
20代後半、30歳の入口まで待たなくてはならなかった。

それは、自分の人生のなかで、ハルキを理解するに足るような経験値の問題かもしれないし
哲学やら歴史学やら社会学やら文学やら批評が、一通り「何を問題にしてきたのか」を
一応、並べて理解できるようになることで
ようやくハルキが何を言わんとしてるか、少し分かった、という感じだ。

だとすれば、村上春樹は、日本人の眼からしても難しいのであり
仮にあの文章の一部が
韓国や中国やロシアや、どれどころか、ブラジルやスペインの人々に読まれているとして
しかもひょっとしたら
私と同世代ぐらいの若者(広義で20-30代としよう)の心に
何かを響かせているのだとすれば

それは「何」なのか?
という疑問を呼び起こしてしまうのだ。
(言い添えると、別に英米仏独などの若者が、ハルキを好んだとしても、さほど不思議に思わない)


もちろん、私がハルキを理解するまで
ひどく長い時間が必要だったとか
「学問」を理解しないと、ハルキが理解できなかった
というのは、全く個人的な問題であるし

そもそも、私の理解は、私の理解であって
私の楽しみ方と、同じ楽しみ方を、ブラジルの人がしているとは思わないが
(また、その「一致」が良いことだとは思わないが)
彼らにハルキがどう響いているのかは気になるし

大げさに言えば、世界平和というか、他者との侵さない共存の芽とは
そういう部分でしかないような気がしている。

ハルキを読む、中国や朝鮮の若者。
Kポップを聴く、日本人。