村上春樹「便宜的なぼく」について

村上春樹の文章から導かれることと、自分の生活のつながりを書いてます

座間9遺体事件について

幸か不幸か、私の周囲には
定期的に「死にたい、生きていたくない」の声を発する友人がいるのですが
振り返って見ると
私はその人に、ずっと、生きていることに意味があるか、無いか
自分は幸せになれそうか、常に不幸か
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない、わからない。
とりあえず、決断(結論)を下さず
事態を先延ばしにしろ!時間を稼げ!!!としか、言えていない気がします。

今日は死ぬしかないと思った、でも、決断しなかった
明日は死にたくなかった
明後日は楽しいことがあった、でも、この生に意味があると思い込めなかった
次の日は、死にたいと思った、でも、決断しなかった
その次の日は。。。。

みたいでも、別にいいじゃないかとしか、言わないことにしている。


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うまく書けるとは思えない…
何かを考えるとき、じぶんの「型」を使って考えてしまうので
結局、いつもの通りなのですが
何か、ザワザワするものがあるので、遅ればせながら考えました。


哲学の観点からして独裁的状態とは
どういう状態なのか?

いきなり、ここから始めたい…。

独裁的な状態とは
真善美(何が真実か、何が善いか、何が美しいか)ー(何が嘘か、何が悪か、何が醜いか)
が予め決まっていて
それ以外の価値観を持つことが難しいような
国家、システム、組織などのことだと思います。

たとえば、日本は北朝鮮のような独裁国家ではないと
人は言いますが
仮にも日本は、かなり経済合理性がモノを言い、あらゆるモノゴトに尺度を与える世界ですし
経済システム、政治システム、法システムなど、あらゆるシステムが貫徹する世界ですから
そのシステムの「外側」に抜け出て
何かを考えることが案外、難しい世界かもしれません。


この説明で、私はあえて「社会」という言葉を避けてみましたが
(国家、組織、システム、世界と書いた)
哲学史のなかで「社会」はかなり独自の使い方をされる言葉で

例えば
国家ー(社会)ー個人
組織ー(社会)ー個人
システムー(社会)ー個人
世界ー(社会)ー個人
経済ー(社会)ー個人
政治ー(社会)ー個人

などのように、いわば、大きな何かと、個人の間に入る
クッションみたいなものを、「社会」と名指したりします。


勘の良い人は
過去3記事の私のトーンから、すでに先が読めるかもしれませんが

たとえば
「組織」を当てはめましょう。

組織が醸し出す価値観(真善美)と、その個人が持たんとする価値観(真善美)が
一致しているうちは
特に問題がないですが
組織のそれと、個人のそれが部分的にでも食い違う場合
その個々人が、じぶんの価値観を、いきなり「組織」という大きなモノと対立させるのではなく
その中間項の「社会」のなかで
自分の価値観を、他人(同僚や友人)のそれと交わらせてみて
微調整したり、互いに影響し合ったりするような状態をイメージします。

もし、この中間項の「社会」がなければ
個人は、いきなり「組織」と対立して、そこを離れたり、抑圧されてしまったり
単に「組織」が醸し出す価値観を
いかに上手く忖度して、いい具合にポディション取りに成功するかの話でしか
なくなってしまいます。

なので、個人と、大きなモノゴトとの間に
「社会」が機能していれば
俗にいう、風通しのいい組織になりますが
仮に「社会」が存在しないとすれば
それは独裁的な状態に近いと考えられます。



哲学や歴史学の世界では
市民社会がどれだけ分厚いか?」が議論になり
西欧社会には、それが分厚い、と言われがちですが

要は、市民「社会」が機能していない世界では
変な独裁国家、経済に過度に依存したシステム、独裁的組織(ブラック企業、ブラック学校?)
が出来やすく
排斥的な、ギスギスした状況を生みやすいので
多少、人工的にでも「社会」を、どうデザインするかが、あらゆる専門家の間で
テーマになる由縁だと思います。

特に西欧世界は、戦争がどこから生まれるかに自覚的ですし
日本やアメリカでは、個人的な能力の高さこそをエリートの条件としがちですが
やはり西欧世界では、いかに「社会」をデザインできるか
金を作り出せる奴より、場を作り出せる奴のほうが尊重される空気はあると感じます。



また余計なことをベラベラ話したように思われそうですが
今回の座間の事件では
パソコンやスマホの向こう側にいる個人(とくに10−20代の若者)が
個人的な状況から
死にたい、生きていたくない、と切実に思ったとき

「社会」なる中間項を経由せずに↓

この日記の文脈で言えば
他人(友人や同僚)の価値観と、自分の観念を
擦り合せて、互いに影響させることをせずに。

いきなり究極の結論(死なせて(殺して)あげる)と
直接つながってしまったことが問題のように思えます。



個人が、死にたい、生きていたくないと思うのは
多かれ少なかれ

国家ー個人
組織ー個人
システムー個人
世界ー個人
経済ー個人
政治ー個人

など、個人が無数の巨大なモノとの関係のなかで
うまく自分の位置を、確保できないことと
関係しているはず、、、、です。

例えば
学校のシステムは、成績の良し悪しや、素行などを通じて
個人に評価を下します。
経済のシステムは、年収や職業、経歴、資格などを通じて
個人を評価します。
法のシステムは、すでに法に定められていることを基準に
その個人の行いを例外なく裁きます。
家族のシステムさえ、そうした無数のシステムにすでに位置を定められた我が子を見て
「よく頑張ってる」とか「全然だめだ」と追認する程度かもしれません。

そういう風に
自分の位置を、勝手に定めんとする尺度に対し
個人は常に
「いや、そうではないんだ」
「そういうことではないんだ」
「「ほんとう」は、違うんだ」
と、言いうる自由を持っているはずです。

というか、モノを考えるとか、自分が自分である
ということは
外部のシステムが位置づけてくる、アレコレの尺度に対して
「自分は「そう見えるかもしれない」けど「ほんとうは」違うんだ」
と言い始めようとすることでしか
始められません。

それが全く無い人、外部システムが定める尺度のなかで、自分の位置を
適切に定位できて、問題がない人には
そもそも「考える」動機や、自己アイデンティティの悩みなど、生まれないはずです。



ところが、もし「そういうことではないんだ」と言おうとしても
外部の価値観(真善美)への、個人的な価値観の抗いが
1対1の関係で
直接結びつくしかない世界では

どういうわけだか、必ず、個人の側が負ける、ように出来ているようです。
唯物論と観念論、現象学だと思うけど、詳しく書けないので省略)

個人が負けるとは
負けて、個人的な価値観の抗いを、ひっこめて
外部システムが定める尺度の内部でのポディション取りに成功するか
それこそ
死んでしまいたい、生きていたくない、と言うしか無い…

だから独裁的な状態ほど、怖いモノは無いと言われるのだと思います。



死んでしまいたい、生きていたくない、と
言ってはいけないのではなく
いきなり、それを結論に直結させたり、大きな外部システムとの(敗れると分かってる)戦いに
持っていくのではなく
「社会」のなかで、それを他人に試す(言って見る、言い合ってみる)ことが
なぜか出来ない状態になってるのが
どうも問題のように思います。

端的に、重い話ほど、真剣な話ほど
親しい人との間で「してはいけないことになってる」のかもしれない…し。

恐らく、座間に行って亡くなってしまった人たちは
誰に言っても無駄だと言うか
誰に言っても、どうせ、また外部システムのいずれかの基準を持ち出して
自分を否定されるだけだとか
テキトーに流されて終わるロールプレイにしかならないと
先の先の先まで、読み切ってしまった人たちなんだろうな…と感じます。

(その読み切り、は、妥当だったのかもしれないが、妥当でなかった可能性も高いだろうが)


最後に、私も人のことを全く言えないですけど
「社会」とか、面倒くさいモノを、全部ふっとばして
最終「決断」に至るって言うのは
案外、わかりやすい気持ち良さがあるのが怖いです。

「決断」っていうのは
その先にあるのが、敗戦であり、破局であり、死であると分かり切っていたとしても
ぬるぬると
終わりも無ければ、勝利もない戦いを続けるより
魅力的に見えることがあります。

何かを「決断」しようとしてる人間は
なるべく多くの人の意見を聞いて決断してるように見えながら
ほんとうに決断が近づく瞬間には
ある1つの方向以外は、「見えないように」シャットアウトしていかなくてはいけません。

他人の声に耳を傾けたり、自分の意見が妥当かどうか議論すると
決断が揺らぎ、事態が複数化するので
揺らがないように、複数化しないようにするためには
どこかでシャットアウトしなくてはいけません。

ある方向へ向けて、考えをまとめていくんですよね
決断しようとする組織や人間は、、、、
旧日本軍みたいに。
そして、そのための大義大きな物語りをつくる。

今日の話の文脈だと
この揺らぎとか、複数化の契機が「社会」っていう中間項だろう
という感じですね。

…ということで、冒頭の言葉に戻って、ループします。