村上春樹「便宜的なぼく」について

村上春樹の文章から導かれることと、自分の生活のつながりを書いてます

台所のリンス(現象学

うーむ…
暫定的な問題ですが、いまのところの私の考え。。。

 

f:id:yamayuri3247:20171003210859j:plain


外国人と一緒に
シェアハウスに住んでいたとします。

たとえば、仕事から帰ってきて
ふと台所に向かったら、まな板の上に、リンスが乗っかってたとします。

はて、、、リンス??

そのとき、人は、どう思うでしょうか?

 

ある人は、そーか、彼の国では、洗髪と食器洗いの洗剤が「同じ」なんだなー
リンスで食器を洗ったのかー、おもしろーーい!!

と思うでしょうし

ある人は、リンスで食器を洗ったのか!?これはヤバいぞ!!
彼の国ではそうなのかもしれんが、日本では違う!!!
彼に注意せねば!!!

と思うでしょうし

ある人は、そっかー、何か、事情が重なったんだろうなー
ゴキブリが現れて風呂場から追いかけて、液体で動きを止めようとして
リンスを持ち出したんだろうなー

と思うかもしれませんし

ある人は、そもそも台所にぜんぜん関心が無いので
台所にリンスがあることに、さして違和感を感じない

かもしれませんし

ある人は、台所に凄まじい倫理観を持っていまして
神聖なる台所にリンスとは!!!
絶対に許せん!!!
今日こそ、アイツをこの家から追い出してやる!!!

と騒ぐかもしれません。

 

この場合、各々によって「台所のまな板にリンスが置いてあった」ことを巡って
各人の視点、関心、認識が違うことは
常識的に理解されると思うのですが

「台所のまな板にリンスが置いてあった」

こと、そのもの
について
誰もが合意しているような気がします。

人々は、その「事実」に対する見方が異なるだけ、、、
だと考えるでしょう。

私はこれを「客観的な発想」と解釈します。

 


ところが、現象学的発想がありえまして
「台所のまな板にリンスが置いてあった」
ことは
本当なのか?
という問い方があります。

もしかすると、アレは、リンスではなかったかもしれない
何も置いてなかったかもしれない
アレは、リンスの形とニオイをしたレプリカかもしれない

ということも
ゼロではありません。


そういうとき、私たちは
どう言えばいいのか?
言いうることは1つで

「私には、リンスが、まな板の上に乗ってるように「見えた」」

ことだけです。


それが客観的にリンスであるとか、それが非常識的なことだとか
そんなのは、どうでもいい
確かに
私には、リンスが見えたのであり
そのことで
「違和感を感じた」という「私」の感覚があるだけです。

 

この違いは、すごく大きくて
あくまで「リンスが在る」ことは疑っておらず
単に視点や考え方が違うだけだ、という理解と

そもそも「リンスが在る(か無いか)」は
問題にしておらず
「私にはリンスが見えた」
という、自身の感覚から出発していることは大きすぎる違いです。

 

人は現象学的にしか、モノを言えない場合が多いのであり
(幽霊を見た、私は痛かった、私はムカついた、私は辛かった)

それが「客観的に正しいか?」を
問わない作法がありえます。

「私」が疲れて休みたい場合、「みんな」が頑張って、我慢してるかどうか?
は根本的に関係ありません。
「私」は疲れている…。

 

その場合、それでは、リンスが有るか無いかは
所詮「その人の思いなし」に左右されるしかなく
人それぞれ
思いなしが違う以上
客観性とか、共通とか言うこと自体、成立たないではないか!

世の中、言ったモノ勝ちではないか!

と怒る人がいますが

そういう話ではなくて…

 

人は、各々のことを「客観ではなく、現象学的に理解するしか無いが」
でも
だからと言って、自分と異なる他者、自分と相容れない人を排除してはいけない。
その人の「感覚」に同意するかどうかは別として
とりあえず、排除してはいけない。

「違う」から排除するのではなく
「違う」ことを、とくに問わないで
一緒に、その場に居合わせる技術が必要だと思うのです。


私が知る限り
若い世代は、こんなことを記述するまでもなく
かなりの割合の人たちが、当たり前に行っているコミュニケーションです。

ただ、そういう(現象学的)コミュニケーションの「貴重さ」に
ある年代より、上の人たちは、なぜか気が付きにくいように思います。

そのことで、毎日、すっごい、疲れます。


若年層の課題は
「そういう前提を、踏まえた上で、お互いに、どう楽しく生きるか」
であるのに
年長者の課題は
「リンスがあるのは事実だろ!それを、どうするんだ!!!」
と、言い続けている感じ…。


この微妙だけど、大差、伝わりますか?