村上春樹「便宜的なぼく」について

村上春樹の文章から導かれることと、自分の生活のつながりを書いてます

バーチャルリアリティについて

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写真は平壌のビアガーデンだそうで…

 

プールに行きたいんですけど
遠すぎて、それ行っちゃうと休日の半分ぐらい潰しちゃうので
すっごい、すっごい、、、躊躇してます
水着と帽子、もうヨコに準備してるんですけどね。腰が重くて。
これ書いてます。


私、テレビはほとんど見ないですが
ネットニュースは嫌でも目に入ってしまって
政治関係の動きと言うか、記事が、ひどいな…と感じています。

本来、腰が据わってるなら
淡々と般若心経とかやってるはずで
政治や経済のアレコレに、逐一どうのこうの言わないと思いますが
でも、考え方(哲学)や、コトバ(文学)として
最悪のことをやってる首相と、メディアだな…と感じました。

あまりに質が悪すぎる…。


ザッと私の考えでは
世の中で、苦しい立場にある人、自分は社会のなかで蔑ろにされてると思う人を
包摂することに
政治のひとつの目的はあります。(他にもある)

耳障りよく言えば、弱者に手を差し伸べる、民衆のための政治
ですが
シビアに言えば、世をそれなりに納めるためには、不満分子の爆発、治安流動化は
避けなければなりませんので。。。

 

1950-60年代ごろ
そういう民衆に説得力を持ったのは左翼の言説でした。
社会党共産党
高度経済成長があり、拡大してゆく経済のパイがあり、しかし、そこに自分は含まれない
と思う地方の労働者、農民、都市の下層労働者…
彼らに、説得力を与えた「考え方」と「コトバ」がありました。

それは当時のマルクス主義とか、社会主義の発想に行き着きますが
今日でいうボランティア活動、NPO活動、地域活動みたいな話です。
それと高福祉社会。

高度成長の富を前提に、低負担高福祉の社会をつくりつつ
企業サービスや行政サービスに頼り切りにならない生き方(市場からの自由、国家からの自由)。

何か困ったことがあったら、役所にクレームの電話を入れるのではなく
なるべく地域で、サークル内で解決する。
家電製品や農機具を、1つの家庭事に全部揃えるのではなく、シェアする。
公民館や社会教育、勤労福祉会館などを使って
知識のシェアや、仲間づくりを進める。
職場にも、どんどん労働組合、レクレーションの場をつくる。

国家(行政)が、個人の自立を助けるのではなく
国家(行政)は、社会(サークル)が力を蓄えることを助ける。


問題点もたくさんありますが
市場経済に個人をいきなり投げ込むのではなく
クッションのような「優しい社会、仲間関係」を間に入れる発想です。

この時代、反政府、反資本主義とは、こういう理想を含んでいたように思います。

「現実」が、資本主義・対米従属(保守)だとすれば
「理想」(未だ見ぬもの)を目指す思想は(革新)と言われました。

 

1970-80年代ごろ
政治や思想、哲学については深く考えない、稼いで消費することが相応に説得力を持ちました。
一応、タテマエでは後期高度成長、バブル、一億総中流の社会。
確かに日本のなかにも弱者はいますが、明らかに少数。
企業サービス、行政サービスが拡大し
地域活動とか、シェア、助け合いのリアリティを失います。
個人主義、マイホーム主義へ)

左翼政党は、「弱者探し」のために、女性だ、障害者だ、被差別部落だ、ベトナム
とトピックスを挙げ続けますが、一般の労働者たちは、そこから離れていきます。

左翼政党が、「弱者探し」、「資本主義の矛盾に傷つく人探し」にこだわるのは
単純に反自民、反保守もありますが
私の考えでは戦争の呪縛が大きいせいだと思っています。

2度の世界大戦は
突き詰めると資本主義の暴走が巻き起こした大惨事である以上
「何か、それ以外のものを人をつなぐ原理に据えなくては立ち行かないのではないか」
という発想は、むしろリアリティを持っています。

社会主義と言えば、スターリンソ連とか、中国共産党とか、北朝鮮とか
すごく極端な例が挙げられますが
根っこを掘り起こすと「資本主義以外にマシな、やり方は無いのか?」の模索を
左翼政党が行っていました。

それが50-60年代、戦争の記憶も新しく、経済成長も不十分だった日本では
それなりにリアリティを持ったのに
70-80年代、戦争の記憶も薄れ、経済成長が庶民の生活を変えた時代に
リアルを失ったのは、当然かもしれません。

 

そして、90年代の行き詰まりを経て
(東西冷戦の終結社会党の解党→大連立でメチャクチャ→左派解体)

何のかんの言っても、低負担高福祉の発想は
「資本主義経済を否定しつつも、経済成長を前提にする」という左派の大矛盾でした。
経済成長が明らかに終わったとき
残されるのは単純な、高負担高福祉か。
もしくは低負担低福祉で、徹底的にボランティア、NPOの社会にするしかないのか。

いやいや、経済成長は、まだ続くんや!日本最強や!!
原発が足りないから経済成長できへんのや!!
日本に確信が持てないから、父や母が自信無さそうに暮らしてるから
若者がオウムに行き、援助交際するんや!!
日本を取り戻せ!!!!
という右派のみなさま…。
政権の奪い合い。ゴタゴタ。

 

00ー10年代(いま)
民衆に対して説得力を与えているのは右翼の言説…
というより右翼、保守ですらない
全くジャンクな考え方と、コトバで、どうしてこんなことになったんだろうと
思う次第です…

なにせ状況は90年代より悪く
下手すれば、この国は、高負担低福祉の国へ(先の世代は明らかにそうでしょう)

そうなれば、パイの奪い合いで
アイツらを排除しろ!アイツらはズルをしている!俺のほうが苦しいんだから、よこせ!
の奪い合い、大合唱、排除の論理…。

 


ああいう、北朝鮮について語る安倍晋三国連スピーチの「恥ずかしさ」は
いったい、何なんだろう。
それなのに、ああいうものが日本のなかで、相応の支持を集めてるのは
何なんだろう。。。と、気分が沈んできました。
そもそもJアラートって、なんで鳴らしてるんだ…


この国で起きてることは、バーチャルリアリティであり
「真実」というより
「何が実質的に「真実らしさ」を与えるか」なんだと思います。

質がいいバーチャルリアリティ(街のイルミネーション、楽しいゲーム)もありますが
他国や歴史を歪めて成立つ
バーチャルリアリティは、最低だと思います。

国のかたちが経済に依存しており、その経済が明らかに縮んできたとき
ロクなバーチャルリアリティを紡げない
というのは、政治家のせいなのか、市民の想像力のなさなのか、なんなのか。

わざわざ哲学の認識論を持ち出すまでもないですが
ただ1つの「真実」を、私たちは特定できません。
なので、誰もが「真実らしいと思えるもの」を暫定的に選んで
生活したり社会を営んでいます。

ところが、その背景には
「何を真実だと思いたがっているか」
「何を真実ということにすれば、話が分かりやすいか」
があります。

日本は、政治のせいだ、マスコミのせいだ、何のかんの言いながら
けっこう半数ぐらいの人たちが
分かりやすく、単に煽動的なバーチャルリアリティ
「あえて」
選択したがってるように思います。

そうすれば、この国の何が、行き詰まっているのか
自分自身の生き方、発想の、何を変えなきゃ行けないのかの
苦しい課題から目をそらせるから。

敵が外にある限り。


最後に、、、
あえて、社会(政治)思想史をウダウダ書いたのは
50-60年代の理想論は、確かに牧歌的な理想だったかもしれませんが
私は、質がいいバーチャルリアリティだったと思います。
何より、国民1人1人が「まともな人間になろう」と努力しないと
成立たないような発想を持っていました。

ああいう左翼が理想とした社会を作るには
1人1人それなりに教養がないといけないし
他者に寛容でないと無理です。

あの時代の日本には
戦争が終わり、衝撃的なことが幾つも明らかになっていたはずです。
朝鮮や中国やアジア各国で、何百万、何千万の民衆を
日本人が殺害してきたことや
日本国内でも、空気に呑まれて人を非国民と名指したり
本当はおかしい、間違ってると思っても、それを「おかしいじゃないか」と
言えない自分がいた…

それらをトータルで「仕方なかったやん」としか言えない
日本人、己の浅ましさ。

「日本」とか「日本人」とか「近代合理主義」みたいなものが
根っこから揺らぎ
「善く生きるとは、どういうことなのか」
「他者を侵さないとは、どういうことなのか」
「強いとは、どういうことなのか」
「それは新しくやってきた自由とか平和憲法とか民主主義とか、コカコーラと、どう関係するのか」

を、根本から考えようとしたとき
高度成長の中核から弾かれた人たちが
あえて理想的で、あえて難しいバーチャルリアリティを選ぼうとしたことを
一応、尊敬します。


そのことと、いまの、とんでもない落差を考えて欲しい。
いま、多くの国民が浸ってるバーチャルリアリティ
自分がマシな人間になるとか
思慮深くなることとは、全く無関係に紡がれていて

悪いのは相手であり
排除すべきは奴らであり
困ったことがあったら、役所に、学校に、企業、国連にクレーム
とは、ずいぶん程度が低い気がします。

自分自身が、マシな人間になる、っていうオプションが含まれてないわけで…。


うーん…
プールいこう